服が連れていってくれた新しい世界

何年も持っている服ってありませんか?
「まだ着れるから」「高かったから」「気に入って買ったから」いろんな理由があると思います。
私は昨年末、クローゼットの中身を8割〜9割入れ替えました。鞄も靴もいろんなものを含めてなので以前身につけていたものはほとんど手元に残っていません。
なんでそんなことしたかというと、新しくて本当の自分になるためです。
「新しい自分になるための片付け。ものを手放して過去も手放すポイント」という記事を以前に書きました。
その記事では詳しくは書けなかった、服が連れていってくれた新しい世界のことや、そこで出会えた自分のことをあれこれを書いてみようかな、と思います。
「なんか最近スッキリしない」
「自分のことがよくわからない」
「人生を変えたい」
「新しい世界に行きたい」
そんな人のヒントになるかもしれません。
かつてのクローゼットの中は…
それまで服を買うことってほとんどありませんでした。
「気に入ったものを探すのって大変だなー。」「いいものは高いしな。」なんて考えていると、億劫になって、どんどん後回しになってしまっていたのでした。大体クローゼットの中は4年前のものが主戦力で、服たちもだいぶお疲れでした。笑
気がついてはいたのですが、好みも変わっていて、お店に並んでいたら手に取らないものがほとんどでした。内面が変化しているのに服は昔のままで「一致感なかったなぁ」と振り返っています。
断捨離の決意
ある時、身の回りのものは自分の内面に影響を与えていて、服の影響もかなり受けると聞きました。内面が変わっていても過去の服を着れば過去に引っ張られるということです。
過去の自分とは、すでに不要になっている過去の自分の習慣や感覚です。かつてよくしていた思考パターン、反応のパターンを不本意に繰り返してしまうということです。
「なんだかスッキリしない」「現実が動かない」そんな状況の原因にもなります。自分に合わないものを身につけていると自分のことがよくわからなくなるかもしれません。
そんな潜在意識への影響を知り、整理してみようと思ったのです。
断捨離に燃える日々
一度やり始めるとついつい、のめり込んでしまう私はなんだか全部変えたい気分になってきました。笑
よくよく見てみると今の自分に合っていないものばかりのような気がしてきたからです。「これは絶対に合っていない」と実感したのは最近買ったものと過去に買ったものを分けて見比べてみた時でした。
明らかに雰囲気が違うのです。どちらの状態でいたいか考えると、新しい方が断然いいと感じました。その感覚が「高かったから」とか「思い入れがある」という気持ちを明らかに上回り、友人にあげたり、リサイクルショップに持っていったり、驚くくらい躊躇なくスッキリ手放しました。
新しい服の刺激
断捨離に燃えていると服をくれるという人が現れました。家に取りに来てくれれば用意しておくと言ってくれたので、その人の家にお邪魔しました。
その場で色々試着して、好きなものを持っていっていいとのことでした。その時は今まで着たことのない色やデザインの服だったので着こなせるかなーと思っていました。
でも、これがいい刺激になったようです。今まで選択肢になかったものが自分の世界に入ってきたことで、自分の世界の輪郭が崩れました。
次の日、目を覚ますとなんだか感覚がいつもと違いました。それはなんとも言えない、世界が広がった感覚でした。いつもと同じ場所で目覚めたはずなのに今までと全然違う場所にいる感覚があるのをどう説明したらいいのでしょうか。海外にきたときの初日の朝のような、引っ越しした次の日の朝のような…そんな感覚でした。
自分への制限の発見
その後も服の整理は続きました。写真やメールも同時に整理したのでそれもいい刺激になったのかもしれません。
過去の自分をつくった経験を思い出したのです。
服に関する表面的な価値観でいうと「天然素材がいい」とか「エシカルのなものがいい」とかそんな感じです。それがノマド時代に触れたある世界の影響だと気がつきました。
それはアメリカのウィスコンシンで見た世界の影響でした。ウィスコンシンはアメリカの大きなオーガニック生協の発祥の地だったり、オルタナティブ教育が盛んな地域で、私がかつて、ホームステイやファームステイをした場所です。ノマド生活の始まりの場所でもありました。
そこでの生活が私の価値観に大きく影響を与えていました。中でも決定的だったのはホームステイ先の寝室でした。ホームステイ先はシュタイナー学校の校長先生のお宅でした。シュタイナーの世界観がそのまま再現されたような部屋で、「こんなものに囲まれて暮らしたい!」と強く思ったことを思い出したのでした。
その想いが強く、無意識のうちにその世界観に当てはまるものはOK、当てはまらないものはNGにしていたのです。OKにあたるものが「天然素材」とか「エシカルなもの」だったのです。「天然素材」も「エシカルなもの」も魅力的ですが、素敵なものはそれだけではありません。でも、それに触れることを自分に許さない状態でした。
こうやって、気がつかないうちに自分のことを制限していたことを知りました。「なんて窮屈だったんだろう」と外に出てみてはじめてわかったのでした。
選択肢の広がりと囚われない自由
これから買い足す服は何にしようか考えていた時でした。頭に浮かぶ服の候補が以前と違うことに気がつきました。今までトップスにはTシャツにもセーターもあるのに、Tシャツしか見ていなかったり、タートルは着ない、コンサバはなし、などと選択肢の狭い中から選んでいました。でも自然と今までと違う選択肢が候補に上がりました。服の候補が広がっていることが今までの自分の世界の輪郭が崩れていった何よりの証拠でした。
今まで感じていた「いい素材のもの」「エシカルなもの」というこだわりもなくなっていました。こだわり捨てることは、それらをもう持たないということではありません。他のものも選択肢に入れてより多い選択肢の中から選ぶということです。
これしか選べるものがない、という感覚から多くのものの中から納得して1つを選ぶ感覚への移行です。たとえ同じものを選んだとしても自由度が全く違うと感じました。囚われない自由を手に入れた瞬間でした。
服が連れていってくれた新しい世界
服を入れ替えることで、昔持っていたこだわりと、今の自分に合わなくなった価値観や無意識の影響を手放すことができました。服がこんなに影響を与えていたなんて意外でした。
自由な感覚を得て、今まで手にしなかった服を手にすることも増えました。
その変化は理想と現実のギャップに苦しむ世界からの脱出を意味していました。
思えばノマド時代は理想を追いかける傾向にありました。今の自分や現状に満足することができなくて、外へ外へ理想を追いかけた結果のノマド生活でもありました。理想に満たない自分や納得できない現実を見たくないという気持ちもどこかにありました。そのスタンスが服選びにもあらわれて「デザインも色も素材もこだわって、結局妥協できなくて買わない」というパターンでした。
「素材はちょっと残念だけどデザインは好き」みたいな感じで楽しめるようになったのが、私のいる新しい世界です。全て納得いかなくても、理想通りじゃなくても、いい部分を受け取って服を選びます。それは「理想の自分や現状じゃなくてもそれでいい」ということです。そこには等身大の自分がいました。あんまり現実を見たくなくて、適当にすませたかったり、いろんなことを中途半端で終わらせてしまうノマド時代の傾向を手放せた気がしました。
理想ばっかりで行動できない中二病から前向きで現実的な大人になったという感じでしょうか。
服が連れていってくれた新しい世界では、背伸びせずに、等身大で社会と関わるのだと思います。
それは私にとって面白くも怖くもあります。服が連れていってくれたそんな場所をしばらく楽しんでみようと思ったのでした。
「新しい自分になりたい」「住んでいる世界を変えたい」
そんな風に感じたら服を見直してみるのもいいかもしれません。
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